アルコールに砂糖をひとさじ 


 鉄仮面という言葉がぴったり合う女だった。与えられた仕事はソツなくこなすし、戦闘となると自ら前線に出て冷静に敵を片付ける。宴となると羽目を外す連中が多い中、何かあった際すぐ動けるようにと酒も飲まないストイックさには舌を巻いた。だからといって決して冷たいわけではなく、笑顔を見せることこそ少ないもののクルーとの関係も良好だった。ベポのふわふわとした毛並みを堪能している姿を見かけたのも一度や二度では無い。
 そんな彼女に想いを伝えて世間一般でいう恋人とやらになってから早三ヶ月。その間二人で出掛けたり体を重ねることもあった。それなのにどこか満たされないのはなまえが自分から求めてこないからだ。
 島に降り立つ時もおれから声をかけてばかりだし、キスもなまえからされたことはただの一度もない。初めて抱いた夜、しっかりと腕に抱いて眠ったはずが朝起きると隣はもぬけの殻で一種のもの寂しささえ覚えた。そんな男として余裕のない発言は死んだって伝えないが。
 好きだと伝えてやれば私も好きです、と返すくせに表情一つ変えやしない。好きだと言うのならたまには朝までゆっくり居ればいいのに基本ことが終わるとさっさと帰ってしまう。一度気をやるまで抱き潰したが、悲しいかななまえは予想通り先に起きていてとっくにシーツは冷たくなっていた。ため息ひとつでなんとか自分を宥め食堂に顔を出すと朝食の準備に取り掛かっていて平然と挨拶をされた時のやるせなさといったら。
 そんななまえが初めて甘えてきた夜を鮮明に覚えている。酒に付き合わせた夜だ。あの夜以降何度も晩酌に誘っているのは偏になまえがアルコールが入ると甘え上戸になると知ってからだった。


 ◆

 
 その夜は確か、一緒に街に出掛けたにも関わらず用事を済ませるやいなやさっさと帰ろうとしたなまえに対し燻っていた。船長と船員。それだけの関係ではないのだからなんでもない会話を交わしたり、二人ゆっくりと過ごす時間があったっていいだろう。
 ふつふつとした怒りが蓄積されていくがその思いをぶつけるわけにもいかず、一人酒を呷る。夜もおれに呼び出されない限りなまえから来ることはない。ソファの背もたれに体重を預け空になった酒瓶を床に転がした。昨日なまえはこの部屋にいたんだなと思いを馳せる自分が女々しくて情けない。時計の針はとっくに0時を過ぎているのに眠気はこなくて追加の酒を持ってくるかと重い腰をあげた。
 機械音が静かに鳴り響く船内。操舵室にいる船員以外は寝静まっているのか誰ともすれ違うことなくダイニングに足を踏み入れる。暗いと思われたダイニングには柔らかな光が灯っていた。カウンターにランプを置いて一人酒を嗜む先客に息を飲む。

「船長……」
「お前も飲んだりするんだな」

 先客はずっと胸中を支配していた人物で思わず声が裏返りそうになったのを堪え、なんでもない風を装い新しいグラス片手に隣に腰かける。カウンターの上にあった酒を注ぎ、視線だけをなまえに向けると困ったように眉尻を下げた。

「たまには……と思いまして。でももう」
「明日朝早くねェだろ、付き合え」

 帰りそうな気配を察し、言葉で縛り付ける。想いを伝えた時も、もしかしたら船長であるおれに遠慮して断りきれなかったのかもなと自嘲したが、それでも別れる気なんざさらさらない。どうせおれに捕まった時点で逃げ場はないのだから互いを知るのも悪くねェだろう。そう無理矢理理屈をつけ、空いたなまえのグラスに酒をなみなみ注いだ。
 白魚のような細い指が濡れたグラスの縁をなぞる。微かに震える手でお酒をちびちびと飲む様をぼうっと眺めた。恋人になる前から数えればなまえとは随分長い付き合いになるが酒を呑むのを見るのはほぼ初めてだ。一体どういう心境の変化があったんだか。

「…………っ?」

 肩に重みが乗り、腕に柔らかなものを押し付けられる。ずっと目で追っていたのに何が起きたか分からなくなるくらい今目の前でされていることと、これまでのなまえの人物像が結びつかず困惑した。たっぷりの時間をかけてようやくなまえがおれに寄りかかっているのだと理解する。腕に手を絡ませこれ以上ない程密着するものだから無表情を保つのに手一杯で抱きしめ返すこともできずにいると、唇に柔らかく弾力のあるものが重ねられた。キスされたのだというのは即座に理解出来たが反応出来たかといえばそれはまた別の話。情けなくも呆然とするおれを潤ませた目で「せんちょう」と舌っ足らずに呼ぶ声に意識を持ち直す。もしかしてと試しにキスを返すと普段追いかけないと絡まない舌があっさり絡まり充足感が胸中を満たす。
 どうやら普段可愛げのないおれの恋人はアルコールが入ると甘え上戸になるようだった。ふにゃふにゃと締りのない顔でおれを呼び抱きついてくる可愛さといったら。これは良いことを知ったとほくそ笑み、擦り寄るなまえを抱き上げ自室に戻る。これを機にこれから甘えるようになればと期待した。
 が、残念なことに記憶が残らないタイプのようで翌日には普段と変わらぬ一線を引いた態度だったのには肩を落とした。覚えていないのであればあの時みたいに甘えてみろと揺することも不可能だ。
 だがまァ、それなら何度でも酔わせてしまえばいい話。そう都合よく判断し、あれ以来何かにつけて晩酌に誘うようになった。酒を酌み交わしてアルコールがまわり始めると途端になまえは甘えた表情になる。普段頑なに触れてこないくせにおれの腕に寄りかかって、顔を赤らめて好きです、と零す。その様が見たくて島に降り立つ度酒を買い求めるようになったと言っても過言ではない。
 今日も今日とて懲りずに呼びつけ晩酌に付き合わせている。あまり好きではないのか困った顔はするものの、おれに誘われれば断れないのをいいことにどんどん飲ませていく。当然気持ち悪くなっただとか体調に影響が出ない程度にではあるが。大体三杯目あたりから手を繋いだり無意味にせんちょうと口にしたりしだして、最後には自らおれを求めるのに悪い気はしない。
 だが今日は別だ。顔を赤らめ上目遣いで寄りかかる様に今すぐ取って食ってやりたい気持ちを押さえつける。試したいことがあるからだ。
 酔って甘えるくせにおれの名を頑なに呼ばないなまえに一言名前を呼んでもらいたいという単純な話なのだが、何故か船長は止めろと言ってもうんうん唸るばかりで一向に呼びやしない。おれだって一船の船長である前に男だ。好いた女をようやく自分の恋人という立場におけたというのにいつまで経っても名前で呼ばれないのに思うところくらいある。
 キスを強請るのを手で押さえつける。不満そうに唇を尖らせるのを見て見ぬふりをし、ソファに押し倒す。期待に満ちた表情に普段もこれくらい素直ならという気持ちと、この顔はおれだけが知っていたい独占欲が混在した。

「どうして……?」
「キスしたいのか」
「したい、だめなの?」

 泣きそうになっているが、泣きたいのはおれの方だ。おれがどれだけ振り回されていると思っている。そのことをなまえはそろそろ分からなければならない。

「お前、おれの名を呼んだことがねェだろう」
「んん……」
「呼べたらしてやる。ほら」

 結局呼ばせるのに多大な時間を要したがなんとか呼ばせるとまたひとつ満たされるものがあった。だが人間というものは、特に海賊なんてものをやっている人間の欲には際限がないもので。
 今度は素面で甘えてくれやしねェかとの欲が顔を出し始めるのも時間の問題だった。


 ◆


 目が合う度上手く息が吸えなくなって、すれ違う度身を強ばらせて、物を手渡す時に指先が触れ合ったりなんかしたらその感覚を一日中引きずるくらい、船長が好きで好きでたまらない。そんな船長の彼女になれたのは奇跡に等しくて付き合って三ヶ月経った今も信じられない。いつまで経っても地に足がつかなくて宙に浮いている気分。
 時折物陰でこっそりキスを交わすのも夜呼び出されて皆にバレないよう忍び足で船長の部屋に行くのも全部慣れないまま。一生慣れる日なんて来ないんだろう。けれど本当の本当は甘えたくて仕方ない。思いっきり抱きついてめいいっぱい船長を感じたい。気軽に名前を呼んで、呼ばれて。今日あったことを話したり、当たり前に次のデートの約束をする。世間一般のカップルみたいに何の予定がなくても会ったり一緒に眠ったりしたい。けれど船長相手にそんなこと出来るはずもなく。なんでもない振りをして船長から求められるのを受け止めるので精一杯。私が甘えられるのは唯一お酒で誤魔化している時だけだ。
 事の起こりは一人お酒を飲んでいたダイニングにやってきた船長とウィスキーを酌み交わした夜。本当は不意の来客に対応仕切れそうもなくてすぐ帰るつもりだった。船長と二人の状況に私はまだまだ慣れなくて粗相をして愛想を尽かされるのではないかと怖かったのだ。そんな私の心境を知ってか知らずか船長に有無を言わさず引き止められ、勧められるままにお酒を喉に流し込んだ。
 そこまでアルコールに弱いわけではないけれど、二杯、三杯と飲み進めるにつれちょっと気持ちが大きくなってついつい酔ったフリをして船長に寄りかかってみたのが始まりだ。気を張ってポーカーフェイスを貫かなくても酔いのせいにしてしまえば誤魔化せるし、真っ赤な顔もアルコールにあてられたのだと言い訳がたつ。最初はそれこそ今回だけのつもりだったのに一度甘えてしまえば自分から触れられないのがもどかしくて、甘えても受け入れてくれる船長が恋しくてついつい回数を重ねてしまっている。
 そのうち船長に酔う度にベタベタしやがってと呆れられてもおかしくないと自分を戒めようとするのに船長を前にすると触れたいとの欲望が顔をのぞかせ我慢ならなくなってしまう。これで万が一船長に振られることがあれば悔やんでも悔やみきれないと分かっているのに目の前の船長があまりにも愛おしく、後一回だけ、今回で酔ったフリは止めるからと心の中で言い訳を重ね続けている。

「ロー……」

 せめてもの抵抗と言えば名前を呼ばないことくらいだったのに、いつからかお酒を酌み交わす度に名前を呼ばねェならキスはしないと拒まれてしまい自分で決めた線引きを守れなくなっていた。自分でも馬鹿だと思う。甘えるだけ甘えておいてと。元々線引きなんてあってないようなものだ。船長に寄りかかりすぎないように一定の線引きをした上で甘えるのは中々に難しい。
 こうして船長との晩酌が増えるほどに私の中の後ろめたさが胸中を蝕んでいった。
 船長に撓垂れ掛かるとアルコール混じりの甘い匂いが鼻腔を擽る。想像以上に船長の顔が近くて目を伏せた。顎に節くれだった指がかかってそっと唇が合わさる。上唇を舐められてそっと口内へ舌を招き入れた。啄むみたいに味わう船長に泣きそうになる。ソファについていた手に船長の手が重ねられて指が絡まる。ぎゅうっと強く握りこまれ心臓が早鐘を打った。船長の親指が手の輪郭をなぞる。触れるか触れないかの距離でなぞられると手に意識がいきそうになる。そうすると自然舌の動きが疎かになり、船長が集中しろと言わんばかりに更に深く息を合わせてくるからどこに思考を向ければいいのかと混乱してくる。音を立てて舌を吸われ、触れられていない耳が熱を持つ。
 船長の恋人にしてもらって、こんな風に求められる日が来るだなんてこの船に乗った当初は考えもしなかった。今の私は随分蕩けた顔をしていたように思う。ようやく自由に呼吸ができるようになり、船長の胸に寄りかかった。トクトクと聞こえる心音が安寧を連れてくる。

「ベッド行くか」

 我慢せず甘えたいだけ甘えた状態で抱かれるのが一番好き。船長から優しい言葉をいっぱいもらえるから。それこそ可愛いだなんて素面の私じゃ言ってもらえない。
 でもこのままじゃいけない。船長の首裏に腕を回しながらも頭の冷静な部分が警告音を鳴らした。船長と恋人同士になる前にペンギンとシャチから聞いた船長の好みが頭をよぎる。クールで聡明な女性が好みというのが二人の見解だった。船長と十年以上の付き合いがある二人が言うのだから間違いないだろうと必死に大人の女性を演じてきた。勿論船長の恋人になりたいなんて微塵も考えていなかった。ただ、船長にとって好ましいクルーでありたかったのだ。それが何の気まぐれか船長に好きだと言われ付き合うことになり、きっと私は有頂天になりすぎてしまったのだ。船長に甘えてみたい、という欲求が抑えきれないほどに。





 街の酒屋に並ぶ蒸留酒を吟味していると聞き慣れた耳馴染みの良い声がした。その声の方へ顔を向けると道を聞かれているのか見知らぬ男と言葉を交わすなまえが窓越しに目に入る。男にさりげなく肩を抱かれているのになまえが気づかないはずがない。それなのに振り払う素振りすら見せない様子にイライラする。男のくだらねェ下心くらい気づけよ。我慢ならず手に取っていた酒を元の場所に戻し派手な音を立てて扉を開け放ち酒屋を後にする。
 男と話している間に割って入ると船長? と小首を傾げるのも苛立ちを助長させる材料にしかならない。誰だとか何やら突っかかってくる男を無視し、唖然とするなまえの腕を掴んで能力を展開して自室に飛んだ。突然の出来事になまえが目を白黒させるのにも構わず扉に押さえつけ欲望のままに唇を貪った。互いの息の隙間から否定的な言葉が途切れ途切れに投げられる。

「ちょ……っと、何してるんですか!」
「黙ってろ」
 
 相変わらずアルコールが入っていないと無愛想な奴だ。全く可愛げがねェ。手首を握りこむ手に力を込めた。
 何を考えてるか分からない、いつも澄ました顔をしているこいつがふと気の緩みを見せた時の目尻が下がった表情を可愛いと思った。忘れられなくて、また見たいと思ってしまってからずっと目で追ってきた。アルコールが入ればある程度甘えてくるようになったがおれは未だあの時の本当に気を許した笑顔を引き出せていない。当然だ、素面と酒が入った時では条件がそもそも違う。

「離して、ください」
「おれとあの男とじゃ随分態度が違うじゃねェか」
「あの男って……道を聞かれただけです。まだログも貯まっていませんし、余計なトラブルを起こさないためにも愛想良くしていた方がいいでしょう」
「……そうかもな」

 だからといって看過できるかどうかは別だ。おれに振り撒く愛想はないくせにと問い詰めたくなるのも仕方ないだろう。おれの女だという自覚がなさすぎる。

「別に船長に冷たくしてるわけでもないじゃないですか」
「あァ、そうだな。で? だからおれ以外の男にヘラヘラしたって問題ねェと?」
「ヘラヘラなんかっ」
「お前、つまんなさそうだもんな。二人で出かけようが無表情だし酒入ってねェとセックスん時もろくに声出さねェし。おれよりああいう男に甘えたいんだろ。見てくれだけは優しそうな男だったもんな」

 言うつもりもなかったどうしようも無い言葉が口から溢れ出て余裕の無さにこれじゃ本格的に愛想を尽かされてもおかしくねェなと自嘲した。
 下唇を強く噛み締める様子が痛々しい。手首を解放してやると自分の腕に白くなるくらい爪をたてるのは流石にみていられなくて咎めた。
 
「さっきから随分……勝手じゃないですか!? わたし、私だって…………船長にあ、甘えたいですよ!! でも、私は船長が好きでどうしようもなくて……っ。意識するほど無表情になっちゃうし、だから、お酒の力借りてたのにっ。す、好きな人に甘えるの、結構難しいんですからね!?」
「……は?」

 胸をどん、と叩かれ薄い涙の膜を湛えた目で訴えられた内容に瞠目した。訴えられた内容を咀嚼するのにいくらか時間がかかったが致し方ないだろう。まさかこんな風に想われているとは予想だにしていなかった。が、有難い誤算だ。
 言い切ったせいで肩で大きく息をする様子に笑いをこらえ謝罪の言葉を乗せたキスをした。キッと睨みながらも受け入れるなまえがいじらしい。目を閉じ身を委ねるのはこいつなりの愛情表現だったのだろう。特別おれに無愛想に見えるのも意識している故だと思うと途端に無表情なのも愛おしく。
 そもそも船長のタイプってクールなお姉さんじゃないんですか、ととんでもない誤解をしているのは早々に解いておいた。誰から聞いたんだそんなもん。
 まァいいか。今はまだ。アルコールがないと甘えられないのならそれはそれで。いつか素面でも甘えてくれればと密かに乞いつつ今夜も晩酌に誘った。


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